【グリコ・森永事件】宮崎学氏逝去・著作ベストセラー?人生が波乱万丈すぎる
グリコ・森永事件は’22年現在も犯人が見つからず、’00年2月に時効を迎えていることから捜査も進みません。
’84年~’85年に阪神間の食品会社を標的にしたにも関わらずです。
真犯人の憶測は様々ですが、容疑者の1人として長年挙げられていた宮崎学氏が’22年3月に享年76歳でお亡くなりになられました。
グリコ・森永事件って?
グリコ・森永事件は日本の阪神間(大阪府・兵庫県)を舞台に食品会社を標的とした一連の企業脅迫事件です。
犯人が和文タイプライターを使い脅迫文を書き『かい人21面相』と名乗ったことから、
かい人21面相事件などとも呼ばれていました。
ではなぜ宮崎氏が容疑者として浮上したのでしょうか。
宮崎氏はモンタージュとそっくりだった
『あんな似顔絵が発表されれば、マスコミだって『どこにいるんだ、逮捕しろ!』と言うに決まってる』宮崎氏は生前そう語っていたそうです。
モンタージュが公開された当時、宮崎氏の友人だった女性は『あんたテレビに出ているわよ』と驚いたと言います。
犯人について様々な憶測が飛び交う中で、状況証拠が当時最も近いとされた1人が宮崎氏でした。
後に事件当時のアリバイが判明しましたが、宮崎氏の生い立ちは以下の通りです。
京都伏見・寺村組・初代組長を父に、釜ヶ崎の博徒の娘を母に4人兄弟の末っ子として生まれる
父方、母方共々学校に通えないほど貧しかった
早稲田を一浪後、第二法学部入学、学生運動に明け暮れ中退
浪人中に共産党に入党したが早大ボイコットを企画実行し共産党除名
『週刊現代』の株関連のトップ屋になるも、5年で退社
家業の解体屋を継ぐもゼネコン恐喝容疑で指名手配され、逮捕
’80年に倒産・25億の負債を抱える
事件が起きた伏見に土地勘があっただけでなく前科があり、警察に目をつけられる要素があります。
事件2年前には金の工面に困り、愚連隊のトップ・万年東一の世話になっていたことから、
警察側は状況証拠として固めたかったのでしょう。
ではなぜ宮崎氏は逮捕されず、その後の人生はどうなったのでしょうか。
著作はベストセラーに
グリコ・森永事件のキツネ目の男が目撃された’84年6月28日、宮崎氏は当時
分裂していた武蔵野音楽大学の労働組合が統一のため現場挨拶の壇上にたっていました。
宮崎氏は後に取り調べを担当した警察官に『ここにいた』と資料をみせるとがっかりされたと言います。
その後も宮崎氏は強かで、’87年バブルの際には地上げを稼ぎとし、’96年には自伝的本『突破者(とっぱもの)』を出版。
波乱万丈の人生と、グリコ・森永事件の容疑者となった経緯を描いたことから、15万部もベストセラーになりました。
真犯人は暴力団だった?
当時京都府警本部長だった・四方修氏によると、数々の犯人説が飛び交う中で有力だったのは大阪府茨木市出身の男を囲む3~4人の犯行グループでした。
大阪北部なまりのヤクザ崩れの実業家グループという疑いは今も晴れません。こちらの方は調査上以下の証拠が浮かび上がりました。
グリコから5億円を脅し取ろうとして拒否された過去がある
銀行口座に被害にあった企業の関係者から3億円の入金があった
犯行に使われたのと同種の和文タイプライター、タクシー払い下げ車輌を親族が所有している
何よりもグリコみ恨みをもつ人物が親族にいることが一番ではないでしょうか。
’92年に任意同行を求め事情聴取をしたものの、容疑を否認されてしまったのです。
江崎グリコは’22年2月に当時の社長だった江崎勝久氏が会長となり、長男の江崎悦朗・専務執行役員が社長になります。
事件が闇に葬られる時に、宮崎氏が命を閉じるということもある意味運命かもしれません。