貴景勝引退・28歳で湊川襲名・首の怪我の悪化
元大関・貴景勝(’24年現在28歳・常磐山)が、’24年9月20日、現役引退しました。引退後は、年寄・湊川を襲名し相撲協会に残る方針です。
大関在位30場所、優勝4回。長年頸椎椎間板ヘルニアと戦い、付き合いのある整体師曰く、歩くことも難しいと宣告されていたそうです。
元大関・豪栄道は『埼玉栄高校から横綱になるのは貴景勝』と期待していました。自分の優勝パレードの旗手を任せる程、期待を寄せていただけに、怪我さえなければと言われたのです。最期の対戦は、元付き人の王鵬でした。
そんな貴景勝は、当初相撲には向いていないと言われました。
貴花田との出逢いが、貴景勝の人生を変えた
貴景勝の本名は、佐藤 貴信。兵庫県芦屋生まれの一人っ子。『貴信』は、貴乃花と、織田信長から一文字ずつ拝借したそうです。小学校の時に、極真空手の教室に通ったものの、馴染まず相撲の道へ。
そこで出会ったのが花田氏(貴乃花)が主宰する相撲教室。四股名の由来にもなった『勝ち負けへの執念』は小学校時代から、只者ではなかったそうです。ドッジボールで負けると泣き寝入り。ソフトボールで負ければ『もう一回勝負して!』と自分が勝つまで食い下がり、高学年になる頃には『運動場の王様』になっていたと言います。
小学生の頃から全国大会で活躍。兵庫・報徳学園中3年時には中学横綱となり名門・埼玉栄高校に入学。世界ジュニア選手権無差別級優勝など計5冠という輝かしい成績を残した後、’13年秋に貴乃花部屋(当時)に入門。『佐藤』の四股名で’14年秋場所で初土俵をみ、16年夏場所、19歳で新十両昇進しました。
初土俵から10年、幕内、綱取り、引退まで
貴景勝の相撲力士人生は、太く短くと言えます。
’17年初場所、新入幕を機に『貴景勝』に改名。’18年秋場所で新三役に昇進、翌九州場所で初優勝。’19年春場所後、’22歳7カ月で新大関に昇進し、期待の星と言われていました。
強くなるために、一日を計算して動いていた
貴景勝は、身長175cm、体重165kgと力士にしては小兵で、幕下どまりと言われていただけに、取り組みが終わった後から、食事、睡眠、トレーニング、全ての準備を怠らなかったそうです。
一日に摂取するタンパク質の量やアミノ酸スコアまで計算ので、ボディビルダー並です。強くなるためには、稽古と食事と睡眠の掛け算が重要と力説する程でした。相撲を論理的に考えていたにも関わらず、怪我に悩まされたのは、押しや付きを得意とする押し相撲だったことも災いしていました。
スピード昇進で大関の地位をモノにした一方、両膝、首、大胸筋など度重なるが響き、カド番を9回経験。2場所連続の負け越しとなりましたが、なぜ’24年の9月引退発表となったのでしょうか。
貴景勝は相撲協会に残る?これからどうなる
結論から申し上げますと、貴景勝は年寄株・湊川を譲り受けたので相撲協会に残れます。’24年9月の水曜に引退発表した理由は以下の事柄が考えられます。
- 昨年、年寄株(湊川)を譲り受けた
- 頸椎の故障は将来的に半身不随、脳梗塞など健康のリスクが高い
- 二十山親方(元大関・北天祐)の次女と結婚、元二十山部屋の建物で生活している
- 親方株を所得すれば、二所ノ関一門元大関として二十山部屋を興せる
- 番付編成会議が水曜日。その前に引退すれば他の力士が繰り上がる
引退の理由は健康上の理由です。頸椎の損傷で半身不随になるリスクが高いとして石浦関も引退しています。そこで問題になるのが、在籍している常磐山を継ぐことができない理由です。
常磐山親方は、隆の勝を後継者にしたい
常磐山親方は、新弟子から育ててきた愛弟子の隆の勝と決めています。
貴乃花から譲り受けた貴景勝は、二所ノ門の大関が親方が追放されて相撲協会に残れないというので、再雇用枠で残っていた湊川親方が年寄株を譲る形になったのです。
貴景勝のお母さん、奥さんは美人
貴景勝のお母さん、奥さんで北天祐の次女は美人で有名です。
幼い頃は父親よりも母親の方が怖かったという貴景勝。これからは後輩の育成に努めてほしいです。