徳川家重・家定は脳性麻痺だった?!早死・病死当たり前・老衰は稀の歴代将軍



徳川15代将軍全員が健康寿命を全うしていたかといえばそうではありません。70以上まで生きたのは初代家康と15代の慶喜のみ。60代が4人。50代2人と歴代将軍は短命だったのが判ります。

在位年数も全員20年~30年続いていたのではなく、就任後僅か2年、3年でこの世を去った将軍もいます。7代将軍家継はわずか5歳で将軍に就任したものの、8歳で風邪をこじらせ肺炎になり早世しました。

今回は生まれつき脳性麻痺があったにも関わらず頭角を現した9代目将軍・家重、13代将軍・家定について紹介したいと思います。

家重は吉宗の息子

9代将軍家重は、8代将軍吉宗と、側室・お須磨の方(深徳院)の長男です。アトデーゼタイプ(自分の意志に反する不随意運動の一種)の脳性麻痺がありました。

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元々の顔は吉宗に似た美男だったそうですが、目は斜視、顎はひょっとこの様に突き出て、眉間に皺をよせている肖像画があります。顔面麻痺と歯ぎしりのために顔が歪んでしまったそうです。

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頻尿だったという説もありますが、江戸城から上野の寛永寺まで5kmの道のりで、一度お手洗いの為に引き返したことがあったからです。それは対面上宜しくないというので、仮設のお手洗いを3か所つけたのです。実際の家重が仮設トイレを利用していたか、どうかは定かではありません。

言語障害もあり、徳川家の公式記録『徳川実記』には家重は、この様に描かれています。

御多病にて、御言葉さわやかならざりし故、近侍の臣といえども聞き取り奉ること難し

 

家重の喋る言葉は、吉宗の代に北町奉行を勤めた大岡越前守の血縁の大岡忠光のみ聞き取ることが出来たそうですが、家重自身は、周りの喋っている言葉は理解できたのは歴史書にも残されています。

政治は父・吉宗時代からの老中・松平武元(たけちか)と大岡忠光に任せる形になりましたが、この時代に吉宗の次男、四男、家重の長男で将軍御三家(田安家、一橋家、清水家)が出来たことは大きな功績です。

家定は慶喜にコンプレックスがあった

家定の兄弟姉妹は25人いましたが、成人するまで生き残ったのは家定のみ。家定の他の兄弟は鉛の白粉のついた乳を飲んで育った為、鉛中毒で夭折したと言われています。

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幼少期に天然痘に罹り、後遺症で顔に痣ができた事や、父であり12代将軍・家慶が13代将軍に自分より知性がありイケメンだった慶喜(15代将軍)を次期将軍に推していた事実も判明。側室や子息にも恵まれず、不遇の時代を送りました。

家定自身は、温和で聡明な性格だったので、世継ぎを巡り子孫の毒殺が相次ぐ中、カステラやふかし芋を作ったのは、自分や家臣を守るためでした。

不遇の時代に将軍になった家定ですが、大河ドラマでは堺正人さんが演じたことで知名度があがりました。

いがかでしたでしょうか。

女性の鉛白粉は明治時代にようやく廃止になりましたが、江戸時代は当たり前の様に使われていた為、将軍家の世継ぎが早くに夭折したことも判ります。

現在徳川家当主は19代目・ベトナム人女性と国際結婚

’23年現在徳川家当主は19代目・家広氏。

小学校から高校まで学習院で大学は慶應義塾。しかし相続税などの優遇は全くないらしく、法要は年に30回もあるのだそうです。